無敵キャンディー

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加藤シゲアキ小説の面白さについて〜文の中核でアイを叫んだけもの〜

Burn.の文庫版発売、おめでとうございます!!



この際なので、一人でも多くの人に加藤シゲアキブランドの小説を読んでもらいたい。そこで、いい機会だ、なぜ加藤さんの小説は面白いのか?私が思う独断と偏見で書き記そうと思う。


ここで、前置き。
魅力を伝えるため、今回は①〜⑥のトピックについて考察していく。



せっかくBurn.が発刊されたばかりなので、それを中心に他の作品もたくさん見ていく。これはステマなので!!!宣伝をね!!!
その他、若干のネタバレを含むのでお気をつけくださいませ。小説はあくまで「好み」なので、面白さというのは人それぞれ。押し付けている訳ではない。ここを通して少しでも加藤さんの小説の魅力が伝われば、そして読むきっかけになれば幸いです。







①伏線の張り方



とにかく、伏線の張り方が綺麗。巧妙かつわかりやすい。例えるならば蜘蛛の巣、と言おうか。配列が綺麗。そこかしこに正確な形で張り巡らされた蜘蛛の糸は、読者を掴んで離さない……いや、私の場合は「伏線に引っかかっていたことに後から気づく」という鈍いタイプなので、いつも加藤さんの掌で転がされてまんまと食われているわけです。


Burn.で最も大きな伏線と言えるものは、主人公の名前だろうか。「レイジ」とカタカナで書いてあると意識しないかもしれないが、「レイジ」=rage(怒り)である。

主人公であるレイジは元子役で、子役だった時は役を演じるマシーンのようになっていた。まるで心や自我がないかのように、役「そのもの」になっていた。そんな彼は「ある事件」をきっかけに過去20年の記憶を失っている。が、実はその出来事がレイジに心を生み出すことになる。

皮肉にも、「怒り」によって、彼の心を覆っていた殻は熱く燃え、人間らしくなるために破られたのである。まさか主人公の名前がここに繋がると思うであろうか。レイジとカタカナ表記にすることはとても意味がある。平仮名はやわらかさと温かみを与え、カタカナは無機質さ、シャープさを感じる。「れいじ」でも「礼二」でもいけない。名前一つにしても、作品の雰囲気に大きく関わってくる。彼は「怒り」によってレイジという人間になることが出来たのである。「怒り」は彼という存在の原点、彼そのものと言ってもいいかもしれない。だからこそのレイジ=怒り なのである。


また、私が最も加藤さん小説で好きな伏線は、やはり「Undress(傘を持たない蟻たちは)」だ。小気味いい会話のテンポに流されてスルスルと読んでいくと、最後にかけて加速し、「おっ??」「おおっ!!??」という様に、右から左から次々とジャブを食らわされるので注意。社交辞令という被ったお面を裏返すと、そこには狐のように笑みをたたえながら主人公を冷ややかに見つめる、冷静なキレ者の顔が現れる。まるで能面である。

文中に散りばめられた不穏に光る伏線の数々は、最後の畳み掛けによって繋がり、その黒幕と痛々しい皮肉な面白さが露になるのだ。(だから、オチを読む事で何が伏線だったのかが繋がる。離れて見たらひとつの星座が見えた、という感じ)






②気持ち悪さ



加藤さんの小説には「気持ち悪さ」がある。それは文章全体になんとなく纒わり付く煙のよう。どこか湿っぽく、日の落ちそうな夕方〜宵あたりの雰囲気が漂う。


Burn.では「サブキャラ」、そして「レイジの感情」に焦点を絞って話していこう。


まずは「サブキャラ」。
きっとこれを読んでいる多くの方には、自分が帰ることのできる「家」があるだろう。(ここで言う家、とは建築物であり、物理的な家を指す)そして、よく分からない薬やbarなど、知ってはいるが見たことは無い方が多いのではないか。

しかし、Burn.でレイジに影響を与えたのは「ホームレス」と「ドラッグクイーン」なのである。偏見的に言うと、「一般世間から外れたもの」である。私たちが普段あまり目にしない、または意図的に目を逸らしているものにスポットを当てることで、文章に違和感を伴った引っかかりを与えるのだ。怖いもの見たさ、とはよく言ったもので、自分が受け入れられないはずのものは現実世界では関わりたくなかったとしても、仮想世界(小説やTVなど)においてはその要素が「見たい!」という欲求になる。




加藤さんの小説でトップクラスに「気持ち悪い」のは、「ピンクとグレー」の、りばちゃんがごっちの死体を片付けるシーン、そして「イガヌの雨(傘を持たない蟻たちは)」であろう。


前者はとにかく「感覚的に」気持ち悪い。死臭や汚物や胃酸の臭い。マンションの高い所で、部屋の暗さと闇に包まれた2人だけの密室空間。切迫感とせり上がってくる胃酸の臭いが嫌なほど伝わってきて、こっちまで息が詰まる。しかし実際は、りばちゃんがごっちを最期まで「白木蓮吾」でいさせるために、最後のステージにふさわしい装飾を施すという美しいシーンなのである。綺麗な部屋、マンション、白木蓮吾兼ごっちの美しい顔、そしてこれから死のうとする人間が決して行わないであろう、クリーニングに出されたスーツ。これは、ごっちがりばちゃんを信頼しており、必ず着せてくれるであろう、という願いだったのかもしれない。2人の間にそういったやり取りは交わされていないが、それこそ唯一無二の、ねじ曲がっていた「親友」とは異なる関係性によるものであろう。(死後、自分が汚れてしまうことも計算に入れたうえでスーツを用意していたように思える)この矛盾がさらに気持ち悪さを引き立て、空気が入れ替わらないような、泥のような粘着性が残る。



そして後者。そもそも「イガヌ」って何だ??既に入口から不穏な空気が流れている。得体の知れないものは気味が悪い。
(イガヌは生き物なのだが)このイガヌ、見た目と動きがとにかく気持ち悪い。軟体動物と魚と妖怪と虫……それらの気持ち悪い部分を全て凝縮した感じ。「世にも奇妙な物語」で2番目か4番目に出てきそう。

この気持ち悪さと粘性を表現するため、イガヌが降って落ちる音は「びたびたびた」である。蛸の吸盤がひっついて取れなくなるようなこの擬音は、イガヌの気味悪さにリアリティを与えている。加藤さんが意図的にイガヌの気持ち悪さを全面に押し出しているのがわかるだろう。

さらに気持ち悪いのは、イガヌを巡る人間の動きである。イガヌは作品中で、大変甘美で最高の食品とされているが、それを求める人間の狂乱具合が最高に気持ち悪い。生々しく下品で、まるでその人間までイガヌのように目を回しているのだ。普段は抑制されている人間の狂喜めいた本能がどれだけ気持ち悪いのか、怖さも感じるのだ。



これほどに気持ち悪い空気感を表現しているのは、なんと紙の上。白い紙の上で気持ち悪さが読者の心を侵食していく。だからこそ、加藤さんの小説には印象に残るシーンが多いのであろう。私は加藤さんの小説を「もや」とか「霧」だなあ、と思うことが多く、様々な色が混ざり合ってマーブルになったものが溶け合っているような印象を持っている。時に月夜の下の澄んだ空気のようにもなるが、この違いは「気持ち悪さ」の有無に左右されているのだと思う。








③五感に訴えかける表現


加藤さんの小説で印象的なのは、五感を刺激するシーンの数々である。
Burn.の最も重要と言える、(何が燃えたかは読んでください)が燃えるあのシーン。私はあのシーンでいつも泣いてしまう。煌々と燃える炎は、レイジの目にどう映っていたか。どんな炎よりも赤く燃えて温度を感じていたか。偉大なる炎の前では、ただ無力になるしかない。
「蠢き、嘲笑い、暴れた」その炎の様子は、痛々しく、不気味で、じくじくと腹の中が疼くようなリアリティのある表現である。身も焼けただれる痛さの反面、炎の力強さと美しさが共存した、息をしているかのように猛々しい炎が感じられる。


また、他の作品で私が好きなのは、1)「イガヌの雨」における料理の表現、2)「閃光スクランブル」の山場、写真を撮るシーンである。



1)では、家庭料理(和食)の温かみとふわりと香るにおい、口に広がる味わいが豊かに表現されている。次は冒頭部分の引用である。

筑前煮の人参を齧ると、鰹出汁、そして椎茸からほのかに移った香りが、ふわりと口の中に広がった。続いて揚げたてのアジフライを塩だけ振りかけて口にする。サクッとした音がした直後、アジと油の旨味が舌の上で愉快に躍り、喉を通って行った。』


秀逸以外の言葉が見つからない。これだけ料理のことを長く書いても飽きさせない、むしろ食事の様子が流れるようにわかる。素晴らしいのは、この順序である。齧る(食感)から香り(嗅覚)へ、そして味覚へ。また、舌の上から喉へ。この移行をあえて詳細に書くことによってリアリティが生まれ、読者の食事体験と重ね合わせることができる。伝わってくるのは、口の中で大切に味わい、食事を悦んでいるような満足感だ。今にでも紙から揚げ物の香りがしてきそうな名文。そして、筆者自身も出汁や素材の味わいにこだわりを持って、大切にしているのであろう。繊細で複雑な美味しさの感覚を、単純な言葉の配列の工夫と言い回しだけでここまで感じさせてしまうのだ。



2)におけるカメラのフラッシュは、あまりにも眩しく、それはまるで目を刺す様な激しさを持っている。
『様々な閃光が交錯するスクランブル交差点は、スペクタクルで激しく、ドラマティックだった。騒然とした光の渦に二人は引き込まれていく。蛍の夜に引けを取らない、人工的な燐光の街。』


この描写で、スクランブル交差点が刺激的な眩しさに包まれているのが分かる。目に飛び込んでくるのは鋭い人工的な光。この様子は「閃光」と言う表現からも激しさが感じられる。しかし、ここでは人工的であるはずのフラッシュの光があえて自然光の蛍と対比されている。なぜか。これは2人にとってこの光が特別な意味を持っているからに他ならない。都会の喧騒と、秩序に従って半永久的ともとれるほどの光の中だとしても、カメラの小さなフラッシュはもみ消されておらず、むしろ特異なものとして2人の立つスクランブル交差点の一瞬を彼らだけの時間にしていたのだ。これは、ライブにおいて自担がスポットをあてられた時の感覚に似ているかもしれない。色とりどりに輝く交差点の閃光の中に焚かれたフラッシュは、都会の光に照らされて息をするように景色の一部になっていたのである。




④色について



加藤さんは色の表現が素敵。人よりも鋭敏で繊細な色彩感覚があるように思われる。


Burn.で印象的なのは、様々なオレンジ色の表現。燃えるように切なさを残して沈んでいく夕陽、焼け朽ちる中に強さを持つ炎……オレンジ色ひとつとっても、幅広い表現によって様々に印象が変わる。次の文を見ていただきたい。



『緋色から濃紺に移ろう夕暮れの下、おもむろに百円ライターを点けると炎は空のグラデーションと重なった。』


紺の背景にぼんやりと浮かぶ小さな炎が、静かな温度をもって脳裏に浮かび上がってくる。鮮やかな夕焼けの赤と暗く飲み込むような黒が混ざり合い、あの時間独特のさびしさと孤独を感じさせている。この表現は、手元に近いライターの炎が目の前、夕焼けのグラデーションがバックにある遠近感も「重なった」というたった一言で感じさせるので、言葉のチョイスは大事だと改めて思うのである。




そしてBurn.以外で好きな色の表現は、
1)「ピンクとグレー」におけるアルビノのメダカ、2)「染色(傘を持たない蟻たちは)」



!)は、アルビノのメダカが消えてしまった、という話。
『吸収されなかった色を私たちは見ているの。つまるところ、その物質が弾かれた色が私たちの目に映っているのよ。(中略)自分自身が嫌った色にしか他人の目に映らないの。』
アルビノのメダカはね、嫌いな色が映る自分の姿を見られたくなかったのよ。だから色素を捨てたの。でもね、私たちには見えていたでしょ。色素を捨てても透明にはならない。だから、メダカは全ての色を吸収することにしたの』

これも物凄い考えだし、名文だと思う。なんて儚く、淡く、綺麗な文なのだろう。今見ている色は「嫌った」色だなんて……そんな夢想的な表現には、多くの人が酔いしれてしまうはず。色は普段自己表現として好きな色を選ぶはずである。しかし、これは全くの逆。もしかすると、私たちの気づかないところで、自分の身を隠した存在を見逃しているのかもしれない。この世界から離脱し、自分の世界で生きることを選んだ存在を思い出させるような、切なくもどこか愛のある表現。加えて「全ての色を吸収する」と結ぶところまで綺麗で、加藤さんの色彩感覚と文章の美しさがわかる文である。まるで自分を守るために全てを受け入れたような切なさがある。(これは後のごっちにも重なるような気がするが、違うのは、最期まで「白木蓮吾」らしくいようとして服を着たという点だろうか。)




2)そして、「染色」
これは加藤シゲアキ作品の中で私が最も美しいと思う文章である。


簡単に言うと、腕をスプレーで染色せずにいられない女性、美優との恋愛の話で、ラストは切なく悲しみを帯びている。しかし、それ以上に色彩や空気感の美しさが際立っているように思うのだ。これには前述した「気持ち悪さ」も含まれているが。


塗料で汚れる2人の描写は生々しく、絵の具が混ざりあう様と重なる。文字通り彼女の色が移ると同時に、主人公は彼女自身に溺れ、染まっていく。絵の具はたくさんの色を混ぜると濁ってしまうが、それも加藤さんは計算済みで、綺麗な色にするのみならず、「汚す」ことも含めている。


そして、色は上から重ねてしまうと隠れてしまうこと、また洗い流せてしまうことの儚さを絶妙に利用している。ここを描くことで、最後に色というより絵の具の特性、「染み込む」ことが対比されている。この効果で、主人公の未練や執着、そして「消えるな」という自己暗示が強く感じられる仕組みになっている。スプレーで毎日色を変えたり、塗り直されて消えた手跡の描写をしておき、最後に「深く刻まれて消えない」と言い張る主人公は、彼女自身が消えてもなお忘れられない想いを激しく抱いているのだ。


また、この表現を美しく演出しているのは、様々な光だ。これによって色がはっきりと現れ、鮮やかに浮かび上がる。本来の彼女と会った後の、やたら紅い夕焼け。彼女と初めて出会った時に顔を照らしていた白い街灯。情事の際に窓から入る青白い朝日。別れた後、誰もいないアパートに行った時の月明かり。色を美しく見せるために各所に光が出てくるので、探してみるのも面白い。






⑤物語の山場と、本のタイトル




Burn.でもわかるように、加藤さんの小説のタイトルは物語の山場を象徴しており、読後感として山場のシーンが強く残るようになっている。タイトルの付け方には様々な方法があるが、なぜこの様な付け方をしているのか。私の考えでは、加藤さんの小説の書き方にあると思う。


タイプライターズで、「ピンクとグレー」の構成と書き方の本人による解説を記そう。まず「(死体の)友人をキレイにしたい」という所から始めた、とのことで、そのシーンが最大の山場となっていた。そこに出てきたのはタイトルである「ピンクとグレー」……りばちゃんの親友だった、ごっちのスーツの色である。(やはりここでも色に特化)


閃光スクランブル」も山場のシーン(③で前述)を意味し、過去を払拭するために渋谷交差点で写真を撮った時の眩いカメラのフラッシュが連想される。「傘を持たない蟻たちは」においても、それぞれの短編には山場のシーンから題がつけられており、タイトルを見ただけで話の内容が鮮やかに思い出される。これはとても大きなことで、シーンを読者に残すということはそれだけ心を動かしたということであるから、加藤さんはすごいなあと思うのである。(実際、私はポンコツな読み方なので(笑)、読んでも後で「これどんな内容だったかな・・・?」となってしまうことが多いです。)





⑥文の中核でアイを叫んだけもの



加藤シゲアキの作品に、絶対的な絶望はほぼ無い。中間部分や転の部分で、限りなく暗闇の深淵に落とされたとしても、最後には必ずと言っていいほど救いの手を差し伸べてくれるのだ。これは、加藤シゲアキという人物を知っていようがいまいが感じられるだろう。彼はきっと、人間の醜さ、不器用さ、不甲斐なさ、かっこ悪さも全て抱きしめ、それでも愛らしく、脆弱でも必死で生きている人間を愛しているのである。


Burn.から見てみよう。
主人公レイジにとって大切な大切な存在は、いとも儚く無残に、激情的に消えてしまう。レイジを人間たらしめた、心に等しい存在。自我を形作ってくれた存在。それはいとも簡単に奪われてしまった。全く絶望的であろう。

しかし、そんな暗闇の中に一縷の希望が差し込む。
レイジの元に新しい命が誕生するのだ。命の灯は巡り、繰り返す。絶望が生まれれば希望も生まれる。加藤さんがこの世界にある愛を絶やさないように、また愛をがむしゃらにでも見つけていけるように、読者に、そして愛すべき小説のキャラクターに、救いの蜘蛛の糸を垂らしてくれるのである。他の作品でもそうだ。加藤さんは、闇の中にいて、明日が来なければいいのにと絶望の淵にいる者を放っておくことなんてできない。優しくて、情熱があって、愛のある心が叫ぶのだ。―――自分が書くことで、何か伝われば。そうして、登場人物と読んだ人の苦しい夜明けに手を差し伸べる。「明け行く夜を慰める」のだ。だから、加藤さんの小説は霧のようでも、そこに太陽が差し込んだような読後感を持っている。不思議と爽やかに感じてしまうのだ。このバランス感は、やはり加藤シゲアキの俯瞰する冷静さと、感情的で人間らしい部分。絶妙にブレンドされており、心地よくなってしまうのだ。







いかがだろうか?読みたくなってきたのではないだろうか。ページを開いてしまえば、もう夜更かし覚悟で読んでくださいね??テンポよくするするっと読めてしまいますから。
よくわからない・・と言う方も、うずうずしてきた方も、・・・・・まあ、とりあえず加藤さんの小説を読んでもらえればいいんですよ!!!!


今回発売されたのはこれ!!

Burn.-バーン- (角川文庫)

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長編が苦手な方はコチラ

傘をもたない蟻たちは

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映画化もされたし、処女作が読みたいヨ~~~!!と言う方は







ピンクとグレー

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輝きを求める方や、キミはキラキラ!!!star of my brightest!!な貴方には

閃光スクランブル

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そして、そのうち「チュべローズで待ってる」も発刊されるので、よろしく!!!!
さあ、加藤シゲアキの虜になって、魂を燃やそうぜ!!!!